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没後70年 ラヴェル&ガーシュウィン ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ こんにちは。今回は現代音楽において最高の作曲家であるモーリ ス・ラヴェルとジョージ・ガーシュウィンについてお話しです。 二人はお互いに影響し合い、そして奇しくも同じ年に亡くなりま した。今年は二人が亡くなって70年という節目の年に当たります。 モーリス・ラヴェル(1875〜1937)は、フランス系スイス人の鉄 道技師の父とスペイン人の母の間に生まれました。音楽愛好家の 父は、息子を音楽家に育てたいと考え、7歳の時からピアノを習 わせ、14歳でパリ音楽院のピアノ予科に入学、1893年には初めて のピアノ曲「グロテスクなセレナード」、95年には「古風なメヌ エット」などを作曲しています。その後バレエ音楽「ダフニスと クロエ」で成功し、1927年にはかの有名な管弦楽曲「ボレロ」を 作曲。その後も「ピアノ協奏曲」「左手のためのピアノ協奏曲」 などの名作を残しました。 一方、ニューヨークの貧しい家に生まれたジョージ・ガーシュ ウィン(1898〜1937)は、兄の影響でピアノを習い、高校を中退 して楽器店のデモンストレーション・ピアニストとして働き出し ます。そのうちに、劇場のリハーサルピアニストや流行歌の作曲 なども手掛けることに。アル・ジョンソンが歌う「スワニー」の 作曲で売れっ子になった彼は、1924年有名な「ラプソディ・イ ン・ブルー」を発表。「パリのアメリカ人」や「ポギーとベス」 など、オーケストラ作品やオペラも残しました。 ラヴェルの演奏旅行中のエピソード ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ラヴェルとガーシュウィンは、ヨーロッパとアメリカでそれぞれ 活動していたため、接点がないように思われますが、実はこの二 人、出会っているのです。 1927年末、ラヴェルはアメリカ、カナダでの演奏旅行のため、初 めて大西洋を渡り翌年1月にニューヨークに到着しました。この 渡米中に53歳の誕生日を迎えた彼は、誕生日プレゼントに以前か ら強い関心を持っていたガーシュウィンに会って演奏を聴いてみ たいと希望。さっそく盛大なパーティが開かれ、ガーシュウィン は偉大な先輩でもあるラヴェルのために一晩中ピアノを弾いたと いいます。 正式にクラシック音楽を学んだ経験のないガーシュウィンは、ラ ヴェルに弟子にして欲しいと頼みます。しかしラヴェルは、「あ なたは一流のガーシュウィンです。二流のラヴェルになることは ありませんよ」とかわしたというエピソードもあります。 当時の時代背景について ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ラヴェルやガーシュウィンが活躍した1900年代初頭は、印象主義 と表現主義が大きな二本柱になっていました。 印象主義は、ほのめかすような控えめな表現が特徴。フランスの 作曲家ドビュッシーに代表されるように、自由なリズムや響きが 使用されました。オーケストラ編成は大きくても、大音量は要求 されず弱音機をつけた金管楽器や弦楽器、木管楽器の独奏などに よって独特の雰囲気を出しました。 そのころドイツ、オーストリアでは表現主義と呼ばれる動きが起 こります。シェーンベルクは、1オクターヴの12の音をすべて対 等に扱い、長調でも短調でもない無調の音楽を作り始めました。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 読者の皆さんの質問にお答えするコーナー。 「クラシックのアンコール」について ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ アンコールの語源はフランス語のencore(もう一度)に由来して います。しかしこの言葉をいわゆる「アンコール」の際に使うの は英語圏の人がほとんどです。 クラシックコンサートの場合、アンコールはプログラムに載った 演目のすべてが終了してから行われます。レパートリーの中か ら、人々によく知られている曲を演奏することが普通ですが、当 日のプログラムを繰り返して演奏することも。伝統的に毎回同じ 曲を演奏する演奏者やオーケストラもあります。
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